sunsunandmoon 「自己効力感」「自己肯定感」って?

40歳からの、、楽しい毎日を!~自己効力感あげていこう~

伴走すること

だれでも伴走する人がいると、自分の力を信じて一歩踏み出すことができる。

伴走してくれる人がいることって本当にありがたい。

 

よく「自分がまもらなきゃ」

とか「がんばらなきゃ」

と強く自らを律してがんばろうとしている40代だが、まずは60歳まで

伴走してくれる人を見つけようと思った

それは考え方、生き方、ファイナンスキャリアプラン、すべてを網羅した

伴走者を

 

ではまた

40代をどのように考えるか

昔、60歳の男性と40歳の男性の区別があまりつかなかった。

どちらも同じ「おっさん」であり、年齢なんて大した興味がなかった

それが自分が40歳になったとき、ふと、「20年前は はたち か。。」

と気がついた ということは40から60まで二十歳の子が厄年を迎える

ぐらいの時間を過ごすのだと。

 

そこでユング先生のいう「人生の正午」を思い出してみた。40歳からが

人生の午後でありこの40歳からをどのように迎えるかで人生の後半が

「統合」するのか「分裂」するのか?とのこと。

 

40歳を二十歳と捉えて、「60まで」をエンジョイするにはどうしたら

いいのか???

 

「過去との別れ」「自分らしさとの決別」「新しく生まれてくる想いや出会いを求める気持ち」「目標の設定」なのではなかろうかと。

 

ではまた

 

すべては幻想である

すべては幻想である。これは投げやりな言葉ではなくて、すべては自らの意識の創造物であるという真実。このことに気がつくと、いろいろうまくいくようになってくる。

マネーゲームから脱出する方法という本によると、我々はまず自分でコリ固めた人間ゲームの中に、自分を演じている。

そのことに気がつくことがとても重要なこと

重要だったんだ!と今感じる。

 

この経験を作っているのは私だ

これは現実ではない。私の意識の創造物だ

その創造物から力を取り戻す。力が帰って来るのを感じる。

私は人間としての経験の中で、もっと本来の自分を表現していく。

この経験を作り、それを「自分自身」に本物だと信じ込ませたあなたの才能に、その創造物の素晴らしい出来栄えに、そしてその第一段階でそれが立派に果たした役割に感謝します

 

ここだけ読むと、狂人日記みたいだか、一定の理解はできる。

これは私の意識の創造物であり、その創造物から、不快な感情を受理しているときは

逃げずに見て、力を取り戻すようにすること。

人間としての経験の中で、もっと本来の自分を表現していく。

 

意識の創造物っていう考え方は非常に気に入った。すべては自らの意識の創造物であり、このホログラムをコントロールしようとする意識はもたない。

 

不快な感情が生まれたら、それに飛び込み、味わう。そして「これは自らの意識の創造物である」ことを認めて、その出来栄えに感謝する。そして、宇宙を信じる(これはいろんな表現ができるが)ポテンシャルの力を信じる。そして力があふれることを感じて快い感情を味わう

 

 

いやー実践は本当に簡単だと思った。

これは私の意識の創造物であり、映画であったり、ディズニーランドであったりも意識の創造物なのである。まず第一段階でこの創造物を作った自分に拍手だね!

この考えは採用!

では、んまた!

 

ザマネーゲームから脱出する方法

いろんなつながりで、「この本よんでみよう」と思い2週間前、書店で手にした。おもしろかった!って、いろいろとまた学びが深まった。

まだ読み直し中であるが、いろんなこととつながってきた。

そして、この本から学ぶことが多いし、この本と出会ったなんか、運命じみたものを感じた。実践していく様をレポートしていこうと思う。

 

随時レポートしていくが、なんか違和感を感じていいたことが、この本の「考え方」ですっきりしていくように思う。

結局いろんな本がいろんな表現で同様のことを伝えているし、それに「気がつけ」「きがつけ」といっているのだと。

 

では、んまた!

 

すべては幻想として

とある本に、「すべては幻想であり、本来の自分に戻ることが大事」と書いてあった。たしかにこれは共感できるところがある。

我と汝 ではないが、カメラと人間の目の違いは、カメラはそのものを写実する。目は脳を通じて解釈する。目のその先には何兆というシナプスがあり、私が見たいように見ている。

一つの脳を他人と共有することはできない。故に人間それぞれ、自分が見たいように見ているし、感じている。

 

すべてが幻想ならば、本気で見たいようにみれば、すべてが一瞬で変わる!そう感じた。そしてしばし実践してみようと思う。

 

んでは、また