なんども、幾度も、何回も
自分の思考の「前提」を変えていくには何度もエクセサイズをすることが大事なんだと本当に痛感する日々。
いろんな人がいろんなことをいっているが、結局は「同じこと」なんだって誰しも気が付いていると思うのですが、よくあることとして「そんなこと知っているよ〜」ってそこで止まってしまう 私もそうでした
体の筋肉が一回のトレーニングでついていかないように、考え方のトレーニングも同様である って気がついたのは娘の勉強を見ているときだった
基礎力が必要、必要、必要って繰り返し書いてある解説書をみて、
「全くおっしゃるとおりです。。」
と感じたのです。
そして、
「ふっ」
と気が付いて、納得する体感を下置き、すべてのことがメッセージなんだとわかったのです。ただ、精神的体力的に疲れていたりすると、過去の囚われた考え方に戻っちゃったりする。ただ、そんな自分に「気がつく」自分がこれまた「すげーなー」って思うのです。そして反省し、行動へ移す
なんども、幾度も、何回も
自分の癖を見つめていくこと。私は、4年ぐらいかかったなと思う今日です
ありがとうございました。では、また。
くやしいのは今の環境を維持したいだけ
今の、この安定した惨めな自分を維持するためには、あえて太っている自分をキープしてしまう
今の、この欠乏した状況を維持したいと無意識で思っている
気がついたことが、しあわせ
すべての終わりがスタートであり、混乱期を得て、安定期へむかう
気がついた、そして終わりを告げた。
すべてが幸せ
ありがとうございました では、また
こびりついた思考(って記憶)
BOSSに媚びる夢をみた
こんなにもこの人に愛してほしかったんだ、評価してほしかったんだと改めて感じた。
他者の価値観の中で生きている。
それを明確に気がついたこと。
評価がほしい自分 評価=収入 と勘違いしている
他人の人生を生きるのか?自分の人生を生きるのか?
私は、今日一人の人を殺すだろう。殺していいと許可をしたのだから。
今、殺せ
そして生きろ!
有難うございました。では、また。
なにを信じるのか
体の筋肉は使っていなかったら固くなっていく。筋肉は筋肉痛を得て、強くなっていく。昨日聞いた話だが、筋肉痛がきたら「よっしゃ」って喜ぶと、どんどん筋肉が強くなっていくと”
思考も同じ。固く凝り固まったものをほぐす それには、「自分の考え」「思考のくせ」に気が付き、一度離れる、手放すこと
よく、「このこと、あの本にもでていだ」「そんなの知ってるよ」って人がいる 私もそう思っていた 知っていること=善 って思っていたが、これが勘違いだった!
なんどもなんども、表現を変えて、角度を変えて学んでいくために、現れていることを
「ありがとう」と受け入れていく
思考のくせに気がつくには、なんか、あきらめていくといいのかな、あきらめるといっても、それは主語を「俺が」「私が」を一旦手放して、無色透明で考えていく
かなと思った。
ありがとうございました!では、また
やる ということ
やるって、結局やりだせばなんとかなるもんよ
ただ、
やらされる、ってなるだけで同じことでも憂鬱になる。
結論、結局気持ちの問題よ
どのような気持ちで事に望むか?現実なんで自分の思い込み
だってことに本氣で気がつくことだ
ではまた
思考の癖を矯正する
自分が日頃なにを反射的に感じているのか?
そして
根拠もないのに、なにを判断しているのか?
これに気がつけば心が矯正されていく